ここは嵐のいる世界
嵐が活動を休止してから、5ヶ月になる。なんの区切りでもない。あっという間だった気もするし、まだそれだけという意外性がある気もする。
今朝目覚めたときに、突然ここ数ヶ月ずっと夢を見ているように生きていたことに気づいた。そしてこれを書かなきゃいけない気がした。
嵐はこちらが困惑するくらいのお土産をくれた。YouTube解禁、Twitter解禁、TikTok解禁、新曲、ワクワク学校、手洗いソング、紙芝居新アルバムドキュメンタリー展覧会配信ライブ配信乳首開きTシャツVRグッズ販売スワロフスキー贈呈、
息つく暇もない、まさに嵐のごとくの怒涛の情報解禁だった。当時何が起こってるのかわからなかったし、今でも正直、わかっていない。
しかもその期間は二年にも渡った。
比べものにもならないが、もし私が『休みます』と宣言してから二年間も引継ぎしてたらおかしくなってしまう。
ただただ雑草として恵みを受けていたら、太陽が『ありがとう、ありがとう』と言いながら降りてきて、水を撒き土を慣らし、しばらくはこれを使ってねとジョウロまで置いていった。そんな感じだった。
だからせめて私は何を言って、何を言わないべきか。何を感じて何を感じないべきなのか。たぶんそういうことをずっと考えていた。
嵐は「同じ夢を見よう」と何度も言ってくれた。みんなが夢を見せてくれるんだと。
でも私にとって嵐は、現実そのものだった。
15年以上も前嵐に出会ったとき人生が始まった。突然現実が鮮やかに質感を持って目の前に迫ってきて、手に取れるようになった。その話を少しだけ残す。
世間知らずな末っ子の私にとって、兄はぜんぶの楽しいことを教えてくれる人だった。
中学生の頃、兄と知っている俳優が出るというのでドラマを見た。「ザ・クイズショウ」というドラマ。
その画面の中に、とんでもなく顔が綺麗な人がいた。
衝撃だった。
私は小学生の頃、流行りのドラマに熱狂する友達の気持ちがわからなかった。
でも水曜日の夜、今日はあのドラマの続きが見られると思った瞬間の高揚感を今でも覚えている。血が胸に一気に集まってドキドキして、ちょっと手足が冷たくなる。それでなぜか鼻がツンとして、浮足立って、真面目な顔して立ってなんかいられない。
いまも忘れられない水曜日に、たまたま両親が出かけていた。お金を多めにもらった私たちは兄妹二人だけで焼き肉に行った。二人でおなかいっぱい食べたあと、兄は伝票にびっくりして、デザートはコンビニで買おうねと言った。それも特別な感じがして、すごくうれしくてうんと言った。そうしてまた一緒に見るドラマに向かって自転車を走らせた帰り道、星も出ていない電線だらけの空がすっごくきれいに見えた。
あの夜より綺麗に見える空はもしかしたらもうないかもしれないと今でも思う。
ある日兄が曲を入れてくれたiPodの中に、「嵐」というアーティスト名の曲を見つけた。
アーティスト画像もなくただのロゴが表示されていて、バンドか何かだろうと思った。
変な名前だな、興味ないのにと思った。スピーカーにつないで勉強のBGMをシャッフルで流しているとき、突然アップテンポな曲の歌詞が耳に入ってきた。
「振り向くな 後ろには 明日はないから 前を向け」
私は急にガンと殴られたようになって、そこで固まってしまった。ノートの上に身を乗り出して、その曲を巻き戻した。それから何度も何度も最初から聞いた。『サクラ咲ケ』という曲らしい。歌詞を表示させる方法も知らず、聞き漏らすまいと耳をスピーカーに近づけて聞いた。
それからごく自然に、「そっか、後ろには明日はないんだ」と思った。
ただの中学生だった私は、今思えば当時は当時なりに勉強のこと、親のこと、友達や部活のことで真剣に悩んでいた。
年齢が若いから、人生の経験が少ないからといって、悩みが小さいわけじゃない。経験が少ないから、世界が狭いからこそ、大きく感じる悩みもたぶんあった。
そんなもやもやを何も知らないはずの、お兄さんたちの歌声がなぜか響いた。
そしてその嵐という人たちの中にいたのが、あの綺麗な顔の櫻井翔という人だった。
それがすべての始まりで、その前の人生はもうよく覚えていない。
嵐という人たちは、深夜に番組をやっていた。
ストッキングをかぶったり、強烈に臭いものを食べたり、Tシャツに乳首の穴を開けあったりしていた。私はそれを翌朝に見ていた。
正確には朝が異常に弱かったので、毎日部活の朝練があるのに動けずにリビングでも床で寝る私を起こすため、母がつけてくれたのだ。
「嵐の宿題くん、始まるよー!」という声は、わたしをいつも起こしてくれた。
30分番組ということもありテンポが良く、メンバーが楽しそうに掛け合いしながら体を張っておバカで捨て身なことを次々やるので、眠くてかすむ瞼を無理やりに引き離しても見たかった。
櫻井翔という人は、優しくて、周りのために自分の弱みをさらけ出せるほど強く、賢さを他人のために使うことのできる人だった。そして嵐というグループの中で、一番楽しそうに笑っていた。
憂鬱な朝でも、火曜の朝だけはつらくなかった。
初めて買ったアルバムは嵐十周年のベストアルバム、5×10だった。
私が嵐に気づいたのは十周年のお祭りが一通り終わった頃だったので、ツアーには行けなかった。DVDを買って、初めてアーティストのコンサートを見た。国立競技場でのライブ。こんなにたくさんの人が集まっているのを初めて見た。開けた空の下、360度上から下まで伸びる客席がびっしりと黒と肌色で埋まっているようだった。
登場した瞬間の地響きするような歓声。物怖じもせず笑顔で見渡し、煽り、叫び、手を振る嵐。何度も何度も聞いた曲のイントロが流れて、声が重なった瞬間、「ほんとにこの人たちなんだ」と思った。客席の点一つ一つが、最高に幸せそうにこの瞬間を共有する人たちの笑顔だった。
人だらけで無彩色だった会場が、ステージごとに青色や赤色、色とりどりの光に染まっていく。華やかな特効とショーみたいに大胆に噴き上げる水柱の向こうで、まるで久しぶりに会えた友達にみたいな顔でこちらに手を振る嵐がいた。
会場の熱と振動が響いて胸がどきどきして、食い入るみたいに夢中になった。画面の前で世界がきらきらして見えた。
凄い人たちなんだと思った。
インタビューが雑誌に乗るたびに翔くんの言葉を読み漁った。
どんなことを考えているのか。何が好きなのか。何を伝えようとしてくれているのか。
CSR、円高、リーマンショック、メガバンク。彼の口にするわからない言葉の意味を調べた。ニュース番組を録画して言葉を聞き逃さないようにした。努力の仕方と、ニュースの見方が少しだけわかるようになった。他人との距離の取り方と、言葉を選ぶことの重みと、世界に目を向けることを覚えた。
「翔くんだったらどうするかな」と考えるようになった。「翔くんのファンとして誇れる人になりたい」と思うようになった。行動の指針ができた。
彼の言葉に触れていくなかで、翔くんがファンにしてほしいのはきっと、翔くんや嵐の事だけをずっと考えることじゃないと思った。
翔くんがいたから、嵐がいたから、自分の人生を頑張れました。
いつかどこかで会えたら、そう言えるようになりたかった。
宿題くんが嵐にしやがれになり、ひみつの嵐ちゃんがあり、VS嵐。
メンバーが主演するドラマの最終回に次に主演するメンバーが特別出演して、リレーのようにつながっていたときもあった。シングルが出るたびに音楽番組にも出ていた。
ただ目まぐるしく日々の情報を追うだけでも大変だったのだから、本人たちの忙しさと言ったら、想像を絶するものだっただろう。それでも翔くんはいつも、ファンの皆様お疲れ様、追うのもHDの容量確保も大変だよね、と気遣ってくれた。
私が好んで嵐の番組を見始めて、翔くんのこんなところがカッコいい、嵐がこんなことして面白かった、を共有するようになり、母もやがて嵐ファンになった。
ジャニーズという人たちを特によく思っている様子のなかった父は、番組やドラマ、コンサートを見るうち、私がいなくてもいつのまにかVS嵐をつけて応援するようになった。ファンクラブにも入っていた。
なぜそうなったかなんて今さら説明する必要もない。
仲が良い。気遣いが凄い。トークが面白い。コンサートが凄い。
そんな言葉は嵐を形容してるだけで何の意味もない。
ただ嵐が嵐であるだけで、ついつい見てしまう。
気づけば心の隅っこにリーダーがテントで居場所を作っている。
それを松潤がワクワクするよう飾りつけて、翔くんが中の居心地を整えるも料理を諦め出前を取り、ニノがすみませんねと言いつつゲームを持ち込み、松潤の指示を受けた相葉ちゃんがなぜかシャンデリアを買ってくる。
だいたい、そんな感じだった。
それからずっと人生に嵐の曲が流れていた。
翔くんが今年に入って毎日のように見たという「嵐の夢」をわたしはぱったりと見なくなってしまった。
どこか足元がおぼつかず、自分でない人が嵐の映っていないテレビを眺めている気がしている。
嵐は夢みたいに、目を閉じれば湧き出たりしない。
彼らが歯を食いしばり汗だくになっても目をかっぴらいて、まるで夢みたいに美しく作ってくれたものなのだ。
折角彼らがこの現実でも聞こえるようにつくってくれた歌を聞いてないのは、自分の方だ。あまりにマヌケで、鏡も見たくない。
だから、いい加減5×20のパッケージを開けようと思う。ずっと溜めていた年末番組の録画も見返そう。そろそろ私の現実を取り戻さなきゃいけない。
これからも 嵐の声を聴いて、生きて、考えて勉強して、働いて、遊ぼうと思う。
それが私の現実だから。
何があってもなくても、この世界には嵐がいる。